本音エッセイ 『いまから ここから 自分から』
           2003/01/05  年賀状の呪縛(?)からの解放







































なお















 思えばそれは「年賀状の呪縛」とも言えるのかもしれません。

 まず最初に、官製の年賀ハガキが売り出される時節から「今年は何枚買っておこうか?」で悩まされていました。
 毎年、前年の購入枚数よりはやや多めに買っていました。こちらからは出していないのに賀状をくれた人への返信分を見込んでおく必要があるからです。

 次の悩みは年賀状の内容とデザインです。これは出す人の「選択」よりも先に生じる悩みです。「選択」は、出すべき年賀状を印刷し、宛名書きの段階になった時に決めればいいことでした。

 毎年同じ趣向、デザイン、スタイルで通し、文書と写真と絵だけを変えている人が少なくありません。出す方にして見ればパターンが定まっているので作成するのが楽になります。それでいて、受け取った方は、賀状をチラリと見ただけで「ああ、あの人からは今年も来たな」とわかります。

 私も定型パターンの確立を目指していましたが、そのパターンを何度も変更していましたので、受け取った人には定型パターンとしては記憶に刻まれなかったようです。

 購入枚数と内容の次は、いよいよ「出す人の選択」です。いつも必ず賀状をくれている人にはそのまま全員継続して出すことにしています。その上で、新しく初めて出す人の分が加わることになります。

 そのため、名刺ホルダーを繰りながら今年一年間で新たに出会った人を見渡します。こちらから出す人を決めるわけです。その際の選択基準は、@また会いたい人、Aまた会うことになると判っている人、B私のことを覚えておいて欲しい人、ということだったと思います。

 でもそれは、他人の目を意識した表現で、「得になりそうな人」には出すが、「どうでもいい人には出さない」というのが本音ではないでしょうか?

 そんな意識が影響しているのか、「この人には年賀状を出しても意味がないからもう止めよう」という「排除」の選択をするときが来ます。これが大いなる悩みだったのです。

 すでに多くの人がいろいろなところで指摘していますが、
「いままでAさんには出していたのだが、あちらからは一度も来なかったので、今年はもう出すのを止めたら、今年に限ってAさんから賀状が来た。それでAさんに返事を出し、翌年は事前に暮れの内に発送しておいたのに、次の年はAさんから来なかった。それでその次の年はAさんに出すのを止めたら、元日に届いた賀状の中にAさんのモノがあった。それで慌てて返信を出したら……」
 というすれ違いの連続は、誰もが経験していることだと思います。

 賀状を出す人の選択が決まれば、次の悩みは宛名書きですが、これはパソコンの活用によってかなり楽になりました。文面の印刷も、印刷屋に発注しなくて自分のプリンターで印刷できますから、発注日や納期が間に合うかなどで悩むことはなくなりました。

 でも、印刷文面に手書きで書き込む「個別メッセージ」でまた悩むことになります。一人一人個別の文言を工夫しますが、どうせ、私が他の人に書き込んだメッセージが他の人に伝わることはないのですから、どうしても同じ文言を使い回すこともありました。

 ここまでの作業を「郵便局が指定する期日」までに間に合って投函できたことは今まで一度もありませんでした。それでも、とにかく年内に投函すれば、元日には着かなくても賀状には消印が押されません。
 そうすれば「元日に届いたあなたからの賀状を見て慌てて出したのではなく、ちゃんと暮れの内にこちらも出したのですよ」ということを相手に伝えられます。

 ここまで年内にできれば、後はすっきりした気持ちで新年を迎えることができるのです。

 元日になって年賀状を貰い、それを暖かい部屋でゆっくり読むのは楽しいもので、確かに「お正月だなぁ……」という実感を味わうことができます。

 しかし、ここでもまた毎年同じ悩みが生じます。こちらからは出していないのに賀状をくれた人への返信を書かなければならないことです。

 さらに、今年は何枚来た? 減ったか? 増えたか? あの人には出したのに来ないのはどうしてか? いつもくれていたあの人から来ていないのはどうしてか?……。
 こんな疑念と不審と、「あの人には出しておけば良かった」という後悔。私だけではなく、どうも年賀状に纏わる様々な「呪縛」が日本人には共通してあるようです。

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